種子島家譜 

 

サーチエンジンGoogleで岩重の名前を検索すると約1000件のHPがあります。 その中で種子島家譜と言う本に出会いました。種子島家譜によると種子島では1828年に初めて岩重と言う苗字が与えられたことになります。それでここにいくつかのURLを紹介します。 さてこの岩重さん達とのつながりがどうになりますか?

 

 

 種子島家譜のすばらしい世界 という題で

    日本の南の海上に浮かぶ一離島、種子島。 そこで江戸時代から書き継がれてきた編年体の歴史書、それが種子島家譜です。目を凝らしてみてください。 そこに現代の日本につながるいろいろなものが見えてくるはずです。  

 

  サーチエンジンが岩重喜作と惣太郎の名前を見つけたのは種子島家譜 44巻と46巻の中です。

先日、ぶどうの木出版から購入した種子島家譜(鮫島宗美復刻版) を読むともっと岩重の名前が出てきましたのでここに書きます。全部で7名です。

1 岩重喜作

2 岩重惣太郎

3 岩重七太郎

4 岩重甚右衛門

5 岩重彦七 (岩原彦七)

6 岩重伴左衛門

7 岩重金助

 

岩重彦七さんは岩原彦七さんかも知れません。

では上記の岩重さん個々の記録を見てみましょう。

 

1 岩重喜作

巻四十四 文政十一年 (1828) 三月 三日

      ○同日、西之表村百姓喜作・新吉・休之進・諸次郎、無双流拳法を学ぶを以て、兵具所附足軽と為し、喜作に岩重氏を与へ、新吉に小村、休之進に藤田、諸次郎に中原を与ふ。
(一世足軽か代々足軽の指定がありません。多分一世足軽 −− 博視)

2 岩重惣太郎 

巻四十四 文政十一年 (1828) 六月

○八日、百姓休五左衛門・幾右衛門・角之允・新右衛門・新造・休右衛門・惣之允・市右衛門・諸吉・惣太郎貞右衛門・次郎太・新右衛門、自ら足軽と称し、市右衛門・新造・新右衛門は榎本氏を犯し、休五左衛門・惣之允は秋山氏を犯し、幾右衛門・次郎太は河口氏を犯し、角之允は長野氏を犯し、休右衛門は長山氏を犯し、諸吉は大瀬氏を犯し、惣太郎は徳永氏を, , ,(二字削除 二月二十日2010 岩重博視)、、、貞右衛門は山口市を犯し、新右衛門は鮫島氏を犯す。事、発覚す。ことごとく庶人と為して、其の高を籍没す

 

巻四十四  文政十一年 (1828) 十月

○廿一日、安城村百姓惣太郎、銭三十貫文を納むるを以て、一世足軽と為し、岩重氏を与ふ。

 

巻四十六  文政十三年 (1830) 四月

二十七日(または後の日)

○高奉行日高杉右衛門を以て船奉行に加へ、猶高所の事を聴かしむ。
○令を出して、家老より諸有司に至るまで、漫(みだ)りに職を辞することを禁ず。
○安城村一世足軽岩重惣太郎を以て代々足軽と為し、高九斗二合八撮(さきに故ありて収むる所の高なり)を与ふ。官、宗助を護送するの足軽を求む。岩重が佞弁(ねいべん)あるを以て、之に当つ。官、宗助をして逃亡せしむるの事を督責す。岩重、能く之を弁別し、事、竟(つひ)に無事に属す。
 (「佞弁」は右の場合は、悪しき意味(佞媚巧言)には非ず。善き意味(才智能弁)の方なり。宗)
○官、岩重惣太郎をして科銭四百文を納めしむ。宗助をして出奔せしむるに坐してなり。事、左の如し。

 

3 岩重七太郎 (もしかすると安城村代々足軽岩重惣太郎のこども?)

 

巻六十五 嘉永二年 (1849) 三月 六日

○同日、安城村の、 、足軽 、 、岩重七太郎、 、相議して屋を?ち器材を焚く。其の為す所暴戻。人道に背くを以てなり。

       嘉永二年 (1849) 五月

○十八日、安城村の、 、足軽 、 、岩重七太郎、 、を赦して出牢せしむ。

       嘉永二年 (1849) 七月 二十二日

○ 、 、さきに安城村の、 、足軽 、 、岩重七太朗を赦すの日。之をして期に先んじて出獄せしむるを坐するなり。

 

巻七十三 安政四年 (1857) 十一月

○二十六日、 、 、安城村 、 、岩重七太郎を赦して、寺よりだす。

 

4 岩重甚右衛門

 

巻六十二 弘化三年 (1846) 三月 晦日

○下西之表一世足軽岩重甚衛門を以って代々足軽と為す。麑府に役して飯米を受けず、且つ手伝の法を善くするを賞するなり。

  (鮫島宗美復刻版に岩重甚左衛門となっていますが種子島開発総合センターにある原本によると岩重甚衛門となっています。岩重甚衛門の一世足軽になった記録がありません。岩重喜作さんの子供かも知れません? −−博視)

 

巻六十八 嘉永五年 (1852) 五月

○十一日、下西之表足軽岩重甚右衛門、妙昌寺に寺入三十七日、不正の事あるを以てなり。

 

巻六十九 嘉永六年 (1853) 四月

○二十六日、牧瀬平五郎、妙泉寺に寺入七日、親族牧瀬権右衛門、 嗣子無し、岩重甚右衛門の嫡子を養ひて子と為すの事、不正あるを以てなり。

       嘉永六年 (1853) 七月 十九日

○同日、金子各々百疋を下西之表道具番岩重甚右衛門、鮫島休助に与ふ。大島の漂流人を護送して麑府に達するを以てなり。

 

5 中西之表 彦七と甘藷、製糖

    中西之表の彦七という人は甘藷の蕃殖と、製糖に貢献のあった人です。ところが、苗字が岩重と書かれているところと、岩原と書かれているところがありますから今後の調査が必要です。種子島開発総合センターにある原本にも以下の記録は同じです。−−博視

 

    巻四十四 文政十一年 (1828) 十一月二十二日

○同日、中西之表足軽荒木休五郎、百姓彦七、各々一世、山野を墾(ひら)きて圃と為し、其の税を納むることを免ず。諸人をして善く甘藷の苗を蕃殖(ばんしょく)せしむるを賞するなり。

   巻四十六 文政十三年 (1830) 二月

○五日。 砂糖を製するを許さるる 、 、 、

 

 巻四十六 文政十三年 (1830)  十月

○二十九日。 大島人喜志行、中円。 来って。砂糖を製するを教ふ。

 

    巻五十 天保五年 (1834) 九月二十三日

○廿三日、中西之表の彦七を以て一世足軽と為し、岩原氏を与ふ。初めて砂糖を製するの年、爨夫(さんぷ)と為りて賃米銭を受けず。翌年、米を受けて銭を受けず。其の翌年、爨夫の長と為りて勤仕す。故に税を免じて山野を墾かしむ。後に自ら糖を製して之を府庫に売る。故に之を賞するなり。

 巻五十三 天保八年 (1837) 十月 二十七日

○嘗て勝手方の催促を以て、米銭を納めて府庫を助くるの輩を褒詞す。 左の如し。 、 、 、中西之表村の岩原彦七、 、

 

    巻六十 天保十五年 (1844) 十月二十三日

○国老島津主計。 命を伝え。 砂糖三十万斤を製することを許さる。

 

    巻六十六 嘉永三年 (1850) 九月九日

○同日。金各々百疋を中西の岩原彦七、 、に与ふ。 多年砂糖製に勤労するを褒むるなり。

 

    巻七十六 萬延元年 (1860) 三月六日

○六日、中西之表一世足軽岩重彦七を世々足軽と為す。製糖を創むるより今に至るまで其の事に与りて功あるを賞するなり。

 

6 岩重伴左衛門

巻八十 元冶元年 (1864) 四月

○二十日、郷役吉留林蔵、 岩重伴左衛門、 、 、麑府にかえる。吾が高奉行河内九朗右衛門及び包丁某。之に従ふ。明年、官まさに島中の田圃を丈量せんとす。因って官に請ひて。先ず是の輩をして。地の広狭、肥瘠を相して。以て予め之が区所処を為さしむ。是に至りて事畢(をわ)りて帰る。

 

7 岩重金助

巻八十三 慶応三年 (1867) 六月

○二十日、下西之表の岩重金助を赦す。

 

以上が種子島家譜からの資料です。

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